天神の子 其の一
 真っ暗闇の世界が目の前に広がっていた。目覚めたきっかけは荒々しく廊下を歩く人の気配と、いつもの怒鳴り声である。
  
「心構えすら無き者がいかに精進しようとも結果は見えておるわ。きさま達が地獄に落ちようともわしには関係ないがわしまで道連れにしようとする態度はいかに詫びようとも許すことは相成らん」     
 部屋に差し込むやわらかな光はまだずっと後にならないと望むことはできない。
 夜の帳が辺りを覆う丑の刻(午前三時)のことである。
     
 歩くたびに廊下が鳴いた。それは決してリズミカルで規則正しいものではなかった。その不規則な音に注意を払っていると意識が急速に現実の世界に引きもどされてくるのだった。一番嫌な目覚め方であった。今日も家来の些細な落ち度を咎め立てていた。
 屋敷内の者が固唾を飲む、その足音はこの館の主、菅原道真のものであった。昨日は慣れぬ蹴鞠で足をひねり、足首が腫れていた。今朝もまだその負傷した足は痛むはずだが、かばうようにして歩いていた。だから足音は荒々しくはあったが不規則であった。
 その後を心地好い軽やかな足音が続く。一歩一歩自己の存在を強調し、踏みしめるように歩く道真の足音とは対照的にすべるように廊下を歩くような足音である。軽やかな足音から母親の宣来子(のぶきこ)の足音に違いなかった。
      
 暖の無い部屋は寒々としていた。特に都特有の底冷えが厳しい未明であった。
 兼茂はもう一度眠りに就こうと夜具を被ってみたが、庭に撒いた玉砂利を踏み締める牛車の音で、そのわずかな抵抗も無駄な行為であることを知った。もう少しすれば、いつもの朝と同く乳母が自分を呼びにくるはずである。      
       
 束帯を身に纏った道真の前に連れ出された兼茂は小さく震えていた。その震えは寒さによる震えだけではないことは兼茂が一番よく知っていた。押さえようとしても押さえ切れない体の芯から起こってくる震えだった。歯が噛み合わずカチカチと小さく小刻みに鳴っていた。
 兼茂は父、道真の厳しさを知っていた。これまでにも、落ち度のある家来を厳しく非難する場面を何度も見たことがあった。手にしていた笏で打ち据えることも珍しくはなかった。
 無抵抗の者に対して鬼のように顔を真っ赤にして叱責する父親の姿は滑稽でもあり、そんな道真を見るのは兼茂にとって何よりの苦痛であった。
 そして、道真の気まぐれとも言える怒りは今日のように家来に対してだけでは済まなかった。同じことが兼茂や家族の者に対しても同様に行われた。
        
 その射るような鋭い道真の視線が兼茂を見詰めていた。怒りの炎で焼き付くされてしまいそうな勢いであった。押さえても止まらない震えはそこからきているのだった。
 そして今日もまたいつものように強くもない酒を飲んでいた。早朝から顔を赤らめ、吐く息使いも荒かった。迫り来る寒さを打ち消すために無理をして飲んでいるのだ。
 それ程までして参内することに忠実で一途な道真と、一緒に行動しなければならない家来の苦労を考えると、兼茂は心から同情するのだった。

 吐く息は白く、板張りの床に座らされた兼茂の足は痛みを通り越し、言い様のないむず痒さに覆われていた。感覚が無くなるまではそんなに時間を必要とはしないだろう。
「さて、これからわしは参内する。父が不在だといって決して怠けること無く学問に励むように。兼茂も兄の景鑑、景行と共に廊下に於いてしっかりと学ぶように」
 肩を怒らせ、道真は、見送りのために並んだ三人の子を前にして厳しく言い渡した。道真が言った廊下とは菅原家の私塾のことを言う。長い廊下を学習の場として多くの門弟を集め、文章道を講義するので、その私塾のことを世間では『菅原家廊下』と呼んでいた。         
 兼茂はうんざりしていた。毎朝、家族の者や家来を未明から総動員して行う参内の儀式もそのうんざりの一因であったが、何よりも父、菅原道真から学問のことを言われるのが兼茂にとって一番頭を悩ませ、うんざりさせられる言葉だった。
          
 菅原家は天応元年六月に土師氏の改氏姓請願により分立した氏族で、居地の大和国添下郡菅原郷の地名を氏名とし、代々学問の家として栄えてきた。兼茂にとって曾祖父にあたる清公は苦学のすえ文章生となり遣唐使に任命され今日の菅原家の基礎を築いた人物である。さらに祖父の是善は幼い頃から文章道を学び、十一歳で殿上に侍して天皇の前で詩を披露するなど天才ぶりを発揮した。さらには参議にまで登り詰めた人物である。父、道真に至っては十八歳で倍率二十倍にあたる文章生試験に合格し、二十三歳の時に優秀な者二名だけが選ばれる文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に合格したのだった。三年後には過去二百三十年間で六十五人しか受かっていない方略試に一発で合格し、さらに七年後三十三歳の時、祖父や父親と同じ文章博士に選ばれるという学者にとってはエリート中のエリートの道を歩んでいた。まったく頭の上がらない父や祖父達である。
 しかし、そのエリートもここまで順風満帆な生涯を送ってきたわけではなかった。
 野心家の道真は己の生きる道を学問の世界という小さな器だけで満足できる男ではなかった。その類いまれな学力を世間から認められたように、政治の世界においても大いなる野望を持っていた。時には家柄だけで出世を成した政敵を厳しく批判し、容赦なく議論を吹き掛け相手の無知や無学をあざ笑った。そういった姿勢が数々の競争相手から疎んじられ、反対に道真に対する中傷誹謗を生み出し挫折の時期をむかえたこともあった。
 あまりにも優秀で傲慢であったがゆえに、道真は政界を牛耳っていた藤原家からうとんじられ、讃岐守として四十一歳の時に讃岐に左遷させられたのだった。息子、兼茂が四歳の時である。
 讃岐に行った道真は、毎日を失意のどん底で過ごした。不満・愚痴を言うことだけが自分を保つ方法であった。供として一緒に行った家臣の半分はこの時期に道真の元から逃げ出していた。
 さらに、万事官僚的な考えに支配されている道真にとって農民の心を掴むなどということは出来るはずもなかった。幾度となく道真の落胆ぶりを伝える詩が京にある菅原家にも届けられた。
 妻、宣来子は夫の不遇に涙し、長男、高視は父親の不甲斐ない様子に怒りと現した。父親の左遷は息子である高視の出世にも影響を与えた。
 道真の学者としての知識や経験は、都でしか花開くことはなかったのだ。